主は生きて働いておられる神です


私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。マタイの福音書7:24~27

 

わたしが初めて通った教会がホーリネス教団の教会だった事もあり、共働学舎に入舎するまでの8年間および今の教会へ通う前の4年間を合わせて12年間、福音派にどっぷりつかって過ごしていました。結果的にはどの教会でも歓迎されなかったのですが、教えはしっかり根っこにしみついていたのでしょう。

悪名高き(教派では)日本基督教団に初めて通い始めたのが3~4年前ですが、その雰囲気の違いや教えられる内容とのギャップに、正直いって混乱しました。新鮮といえば新鮮なのですが、独白のような礼拝中の公同のお祈りに違和感を受けています。前牧師は聖書を読み祈る会は実践してくださっていましたから、それでも良いと考えていました。

前牧師が引退したとたんに、主要会員の口から飛びだしたのは、前牧師への痛烈な批判だったのです。前牧師が10年以上かけて積み上げてきたものは、まったく何の意味もなさなかったのでしょうか。

何度か祈り会をやってほしいと現牧師に願い出てもみたのですが、「どうせやったって誰も集まらないだろう、つぶれていくだけだからやってもしかたない」と、つれない返事が返ってくるだけです。その実祈り会も聖書研究会も一切開催されていません。

気になる事は他にも多々あるのですが、わたしたちはだれしも弱さを持っていますから、あえて申しません。お互いに許しあい支えあってこそ、愛の教会がたて上げられていくのでしょう。特にわたしのように強いこだわりや、思い込みの激しい人間は、神様にも人にも多くの支えが必要ですし、悔い改めつつ主にしがみついて生きていくしかありません。

聖書を読まなければ主の御心を、きちんと知る事はできないのではないかと思えました。ましてや従順の基準を知るためにも、なおの事御言葉に聞く必要はないのでしょうか。”聖書は時代遅れ”、”聖書研究会は疲れるだけ””礼拝でどうせ聖書を開くからそれで十分”が、教会の基本姿勢です。「聖書を1行だけでもいいから、読もうよ!」と、しばしば言ってきたのですが、しつこい、おしつけがましいと言われる事もあり、いまだにそこだけなじめないでいます。

プラスαで現牧師の言動や行動に抱いていた疑問を、特定役員さんに投げかけてみたら、役員会で話題にはしてくれましたが、思わぬ方向へ進んでしまいました。わたしの思い込みも加味されている可能性は否定しません。もしかしたら手の付けられないトラブルメーカーおよび、クレーマーと評価されているかもしれません。

真偽はどうあれわたしはいつでも主を見つめ、主に向かって進んでいきたいと願っている事に、変わりはありません。神様がわたしの人生に責任を負って下さるでしょう。ご栄光も表してくださると信じています。

今は虐待や障害差別を含めて、生きづらさを背負って生きる人たちに、神様の懐で生きる事で得られる幸せを、信仰で表したいと思っています。そのために学ぶ事はたくさんあるでしょう。自分の事にかまってばかりいられません。本来あるべき場所に立たなければ!主が一切の必要を満たしてくださいますように。ねがわくは愛する教会が、砂の上に建つ家にだけはならないでくれますように。

投稿者: nozomi016

アスペルガー症候群およびADHD(注意欠陥多動性障害」という診断名を持つ当事者です。生きづらさを持つ人の交流会・あずさの会創始者兼スタッフメンバーです。 クリスチャンです。