主との一対一の時間


主人とのデボーションの前に主と一対一になれる時間を持っています。主人とのデボーションは5月くらいから11月くらいまでの夏時間は朝6時から、12月くらいから次年度4月くらいまでの冬時間は朝7時から始めていますが、主と一対一でお話する時間はさらに1時間前に持っています。

まず聖書通読をしてから心のひだを主に聞いていただきます。朝ゆううつな気分で目が覚める時は特に主に心のうちをはき出して哀れみを請います。この時間帯が一番好きです。言葉が出てこない時やまとまった時間とれない時は、ひと事万感の思いをこめて「主よ憐れんでください」と祈ります。

心がとても軽くなるのもさることながら、その後の主人とのデボーションでは無料のテキストを使っているのですが、祈りに連動したお答えをいただく事があるのです。わたしは人の言葉で神様に語りかけているのに、神様は聖書の御言葉で返してくださるのです。

大半の事はお祈りと聖書の御言葉で早期解決してしてしまいます。すっきりした気持ちで人前に出られるのが感謝です。どうjも主人も神様との一対一になる時間を持っているもようで、たまに怪しい動きをしています。どんな事を神様とお話しているやらです。

実はこうした一対一の時間のすばらしさに目覚めたのはかれこれ10年も前にさかのぼります。共働学舎に入舎した事をきっかけにおよそ20年間教会へ行かなかったのですが、聖書だけはどのような時でもけして手放しませんでした。教会への不信感は根強くあっても神様の愛はまだどこかで信じていたからです。

周囲に相談できる人がいない、未来も暗い、たった8畳の部屋がわたしが生きている世界でした。”神様つらい”それだけを絞り出すように言葉にしてみました。これが引き金になり心の底にずっと積もり積もったヘドロのようにどす黒い気持ちを何時間もはき出していました。心の中が空っぽになるまで。気がついたら3時間ないし4時間も祈りの姿勢のまま神様の前にうなだれていたのです。

初めは悪口や恨み節、のろい、愚痴、つぶやきでした。礼拝では神様の前でつぶやくなと教えられていたので、膨大に膨らんだ不安や恐れを抱えたままどこにもはき出せずに、身も心も破裂しそうになっていたのです。でも主に心を注ぎだしているうちに、少しずつ軽くなっていきました。

今度は神様の応答が欲しくなったので確実に神様からのお答えをいただくために、1日3回のデボーションを持つようになりました。それぞれ別のテキストを使いながら聖書をむさぼるように読みました。そうしたら祈りに連動するように御言葉が与えられ、与えられた御言葉にわたしが祈りで答えるといった、ちょっと奇妙な神様との押し問答が数ヶ月続きました。

わたしの上がり下がりの激しかった感情の波が少しずつ穏やかな並腺のようになり、ほぼ1日穏やかな気持ちで過ごせる時が増えていったのです。そのうち主人も朝だけデボーションに加わるようになりました。

わたしの祈りは愚痴や悪口からとりなしの祈りに変わっていき、さらにある時ほんとに自然に”主の御栄光がありますように”という祈りの言葉が出てくるようになっていました。お祈りの最後には必ず御心がなりますようにの一言を添えて終わるのが、正しいお祈りの形だど、オンラインの伝道放送番組の中で教えてもらいました。

聖日の礼拝はオンラインの伝道放送番組で自主的に献げる事ができます。ただ聖さん式はさすがに教会へ 行かないと無理です。聖さん式も受けられる礼拝に参加したい、その願いを神様にうったえたら、まもなく答えをもらいました。

北海道の共働学舎でカトリック教会へ一時期通っていた事もあって、行くならカトリックへ行きたいのでカトリックの教会が近くにあるなら、導いてください。プロテスタントの教会はうんざりです。と、こんなお祈りを献げていたのです。

お買い物の帰りに突然「” 神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。( 使徒言行録/ 10章 15節 )”の御言葉がパッと浮かびました。ふと脇を向いたらそこにプロテスタント教会がたっていました。

もう一度同じ御言葉が浮かんできたので、引き寄せられるようにふらふらっと掲示板に近づいたら” すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 ( マタイによる福音書/ 11章 28節 )”という文字が書かれていました。実は朝とその晩のデボーションで読んでいたので、目にするのは3回目なのです。

その教会で主人は洗礼を受けました。結局その教会も長く続かずに次に導かれたのがアイオナ教会です。人生発のホーリネス以外の教会、第一印象は”なんてゆるくてほんわかした教会!”でした。学術的で大学講義のような小難しい話に慣れていたので、一見どうでもいいような話題をおおまじめに話す牧師さんたちのゆるい姿勢も新鮮だし、伝道を押しつけてこない、牧師と信徒は同じも新鮮、もちろん聖さん式もちゃんと受けています。

だんだんわかってきたのです。わたしたちは神様の御栄光を表すために作られて、主の御栄光を表すために生かされているのです。すべての事を主の御栄光のために行うのが、真のクリスチャンの生き方なのだともわかりました。

わたしたちの思いではなく主の御心がなされるところに主の御栄光が表されるという事もわかりました。聖書にはすべての道で主を憶えよ、そうすれば私たちの道をまっすぐにされると書かれていました。

教会から”休まれてはいかがですか”と言われた時は絶望のどんどこにいましたが、逆に今は感謝しています。おかげで神様との濃厚な時間を持てたからです。ですからもしも牧師や教会からこういわれたら、”はいわかりました”と素直に答えて、神様との一対一の時間を楽しんだら良いのです。

自分から1人になる人もいます。教会へ来て深く傷ついた人たちと、あらためて聖書の学び直しがしたいと思いました。礼拝には参加出来なくても、その入り口で良い交わりができたら良いなと思います。どのような形になるのかイメージがうまくまとまらないのですが、少なくとも主のふところはとても暖かいまるで羽布団のように優しく安心していられる場所だと、そう感じられる空間を作りたいと思いました、そのためにももっともっと聖書を勉強しなきゃとも思います。

今力を入れて祈っている事がもう一つあります。牧師の働きのために祈る事です。けして個人的な祈りではなく、教会が教会であるために牧師にしっかり働いていただくための公同の教会としてのお祈りです。実はある牧師から言われた事があったのですが、牧師は誰よりも誘惑に会いやすく真っ先に神様の前に召し出されてだれよりも厳しい審判を受けるのだそうです。だから牧師の働きのために祈って欲しいとも言われました。

頭の片隅に入れてはいたのですが、たまに思い出す時に祈る程度でしかできていませんでした。農村伝道神学校で、祈りのネットワークというすばらしい小冊子を作ってくださいましたので、毎朝1日1教会1牧師および母教会牧師の働きのためにお祈りさせていただいています。とても感謝です。

投稿者: nozomi016

アスペルガー症候群およびADHD(注意欠陥多動性障害」という診断名を持つ当事者です。生きづらさを持つ人の交流会・あずさの会創始者兼スタッフメンバーです。 クリスチャンです。